歴史が長い京都には、怪談や伝説など不思議な話が多く残されています。
それらの場所を総称して、異界(人間が属する世界とは別の世界)とし、ほんの一部を取り上げてみました。
晴明神社の近くに戻橋(もどりばし)という橋があります。
この戻橋には、2つの有名な伝説があります。
1つは、死者があの世からよみがえった伝説です。
戻橋の駒札には(要約)
918年、文章(もんじょう)博士・三善清行が亡くなった時、子の浄蔵が紀州熊野から帰ってみると、葬列が橋の上を通っていた。
浄蔵は、柩にすがり泣き悲しんでいた所、父清行が一時蘇生し言葉を交わした。
この伝説は、戻橋が死者を蘇らせる場と考えられたことを物語る。
元々この橋は、土御門橋(つちみかどばし)という名だったが、以来「戻橋」と呼ばれるようになったそうです。
ちなみに、晴明神社境内に大正11年~平成7年まで使われていた一条戻橋の欄干親柱があります。
もう1つの伝説は、渡辺綱が、女に化けた鬼の腕を切り落としたお話です。
渡辺綱は、一条戻橋で美女に化けた鬼女の腕を切り落とす。
晴明に相談した渡辺綱は、鬼の腕を封印。
その後、渡辺綱の母に化けた鬼が腕を取り返しに来るが仁王経によって救われる。
北野天満宮に渡辺綱が奉納した灯籠があります。この灯籠は、渡辺綱が晴明神社近くの一条戻橋で鬼に連れ去られそうになった時、北野天満宮上空で鬼の腕を切り落とし助かった事に感謝し奉納したと伝えられる。
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夫を恨み、鬼となった女が、安倍晴明に調伏され、この井戸の辺りで、息たえたと伝えられる鉄輪の井戸。
鉄輪の伝説
謡曲「鉄輪」は男に捨てられた市井の女が、貴船へ”丑の刻参り”をして、相手の男性と、その後妻を祈り殺そうとする話が骨子になっていますが、この井戸は”鉄輪の女”が住んでいたところのものだといい、一説には身投げをした井戸ともいわれています。
このような伝説から「縁切り井戸」として、井水を汲んで相手に飲ませると、悪縁が切れるなどの俗信がありました。
昭和10年には「霊井」となっています。なお、かつて鉄輪できずかれた塚があったということです。
謡曲史跡保存会
井戸の水は、現在かれています。しかし、ペットボトルに入れた水を鉄輪井に供えて祈り、悪縁切りの水として持ち帰る人もいるそうです。
六道珍皇寺は、毎年8月7日~8月10日の4日間、あの世から祖先の霊を迎える「六道まいり」で有名なお寺です。
六道とは、仏教でいう地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道をさし、命あるものは輪廻転生を繰り返すと言われています。
六道珍皇寺境内に小野篁(おののたかむら)が閻魔大王に仕える為、「あの世」と「この世」の往来に使った「篁冥土通いの井戸」があります。
篁冥土通いの井戸
当寺の本堂裏庭の北東角にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥府の間を行き来するのに使ったところといわれている。
言い伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。
(中略)
その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。
しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。
これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。
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【京都観光研究所】六道珍皇寺
六道珍皇寺から西へ数メートル歩いた所に「幽霊子育て飴」を売っているお店があります。
幽霊飴
ある日、その飴屋の主人が店を閉めようとすると、誰かが飴を買いに来ました。主人が戸を開けると・・・
月の光を背に受けて、一人の女のひとが影のように立っているではありませんか。顔は月の光でよくわかりませんが、長く垂らした髪といい、肩を落とした姿といい、背筋がぞっとするような、凄いかっこでした。
主人は、女が渡した茶碗に水飴をもると手渡しました。
毎晩毎晩、飴を買いにくる女についに主人は寝込んでしまいました。その話を聞いた近所の若者達が女を捕まえてやろうと飴屋で待ち構えまえる事にしました。
若者達が、飴を買いに来た女の後をついていくと、鳥辺野へ続く道になります。
女が消えた辺り行くと、墓の中からかすかに赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのです。
「よし、墓を掘り返してみろ」
するとどうでしょう。若い女の死骸の上に、かわいい赤ん坊が、飴をしゃぶりながら、泣いているのです。
女は墓の中で出産した子供のために、夜ごと飴を買いに来たわけです。その赤ん坊は、和尚のもとに引き取られ、修学のかいあって、のちに高僧になったといわれています。
【関連ブログ】六道珍皇寺と幽霊飴
京都市内から亀岡方面へ向う国道9号線の途中に老ノ坂トンネルがあり、手前の脇道を進んでいくと首塚大明神にたどり着きます。
首塚大明神には、源頼光と家来達(平井保昌、渡辺綱、坂田金時、卜部季武、碓井貞光)で退治した酒呑童子という鬼の首が祀られています。
酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中この老の坂で休息したが、道端の子安の地蔵尊が
「鬼の首のような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち行くことはならん」
と云われた。
足柄山で、熊と相撲を取ったという力持ちの坂田金時が証拠の品だから都へ持っていくと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、急に重くなって持ち上がらない。
そこで一行は、やむ得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝えられる。
酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病を持つ人々を助けたいと言い残したと伝えられる。
首塚大明神は首より上の病気に霊験があらたかである。
【関連ブログ】首塚大明神
京都の鬼門(北東)の方角、市内中心部から大原へ向かう国道367号線ぞいに、崇道神社(すどうじんじゃ)という神社があります。
崇道神社
奈良時代~平安初期の皇族、早良親王(さわらしんのう)を祀る。
早良親王は、光仁天皇・高野新笠の子で、桓武天皇の実弟である。延暦4年に起こった藤原種継暗殺事件の首謀者として逮捕され、乙訓寺に幽閉された後、淡路に流される途中、無実を主張して絶食死した。
その後、桓武天皇の近親者の死が続き、都に悪疫が流行したため、早良親王の祟と噂され、その怨霊を鎮めるために延暦19年には崇道天皇と追号を贈り、墓を現在の八島稜へ改葬した。
他に、藤森神社・上御霊神社にも崇道天皇が祀られているが、崇道天皇のみを祭神としているのは、この崇道神社だけである。
5月5日に行われる例大祭は神輿の巡行路を決めていないらしい。むかし、叡山電車の線路内で急に動かなくなった事もあるそうです。
【関連ブログ】崇道神社
将軍塚とは、東山ドライブウェイにある小高い山全体を指すのだと思っていましたが、実際は大日堂の境内に将軍塚があります。
将軍塚には、平安京を守るため、高さ約2.5mもの大きな武将の人形が埋められたと伝えられる。その光景は、鳥羽僧正筆の将軍塚絵巻に描かれているそうです。
将軍塚
平安末期以降、天下に異変がある時は必ずこの塚が鳴動して前兆を表すという伝説が生まれた。「源平盛衰記」によると源頼朝挙兵の前年、治承3(1179)年7月には、三度にわたってこの塚が鳴動し、次いで間もなく大地震が起こったといわれる。
蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)は、少なとも1300年以上むかしからある古社である。山城五社の一つに数えられた。境内の元糺の池の中に日本で唯一の三柱の鳥居があります。
三柱の鳥居に関しては「約1300年前日本に伝わったキリスト教一派(ネストル教)の遺物ではないか」や「秦氏に関わる松尾大社・伏見稲荷大社・双ヶ丘(ならびがおか)に向けられているのではないか」ともいわれているが理由はわかれずナゾにつつまれている。
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【京都観光研究所】蚕の社
上品蓮台寺には、狂言でおなじみの「土蜘蛛」に出てくる土蜘蛛の塚があります。
「源頼光朝臣」塚
源頼光は平安中期の武将で、謡曲「土蜘蛛」には、その頼光が原因不明の熱病で臥しているところへ、化身した土蜘蛛ノ精があらわれ襲ってきたので、頼光は銘刀膝丸(ひざまる)で斬りつけた。
血のあとをたどって、家来の渡辺綱ら四天王が追っていくと”北野のうしろ”に大きな塚があって、大きな山蜘蛛があらわれれ、これを退治したところが、述べられているが、その塚が、ここにあったといわれ、一名「蜘蛛塚」という。
北野とは、この辺り一帯の禁野の一つで、ちょうど、ここが北野のうしろに当る。もと千本鞍馬口西入にあったのを、昭和の初め、ここに移した。
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