今回は、秦氏について色々書いてみようと思うのですが、その前に司馬遼太郎著文春文庫出版『ペルシャの幻術師』の中に書かれている短編小説兜率天の巡礼を紹介します。
兜率天の巡礼の内容を少し説明しますと・・・
主人公は、京都のある大学を追放された法学博士。
可憐で物静かな妻が、突然の病気で亡くなってしまいます。
その亡くなる直前夫である主人公に向かって
「怖いィ。お前の、お前の顔・・・。」
と言葉を発し妻は死んでしまいます。
あまりにも別人のようになって死んだ妻に衝撃を受けた主人公は、なぜそのような言葉を言ったのか調べるため妻のルーツをたどって行きます。
ルーツを調べていくと妻は、かつて秦の始皇帝の裔(えい)功満王の子弓月ノ君が山東百二十県の民を引き連れて帰化した秦氏の末裔と知る。
そして、主人公は妻が千数百年前の東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルから追放されたキリスト教の一派(景教)が、東へ流れ古代中国の秦そして日本へたどり着いた一族の子孫であると確信する・・・。
このような感じです。
兜率天の巡礼は、主人公が太平洋戦争終結時の京都と千数百年前のコンスタンチノープル・長安とを時間・距離を超えて行き来する興味深い短編小説です。
この小説でも書かれている秦氏の拠点が京都の太秦(うずまさ)です。
嵐電の太秦駅を降りると国宝第一号に指定された木造弥勒菩薩半跏思惟像で有名な広隆寺が目に入ってきます。
広隆寺仁王門↓
秋の広隆寺境内↓
かつて「蜂岡寺」「秦寺」とも呼ばれていた広隆寺は、聖徳太子から請け賜わった仏像をご本尊とし秦河勝が建立したお寺です。
広隆寺霊宝殿には、秦河勝像がある。
小説では、秦河勝像の事を容貌雄勁で眼が大きく鼻が高く西洋風の顔立ちと書いてあるが、実際見てみると東洋風(蒙古型)の顔立ちに見えました。
この辺りは小説的な味付けかもしれません。
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大酒神社↓
どこの町でも見かけそうな小さな神社です。
神社内の由緒書を見ると・・・・
祭神に秦始皇帝・弓月王・秦酒公と書いてある。
秦始皇帝!!
秦始皇帝とは・・・・
由緒書には(要約)
『当社は、延喜式神名帳葛野(かどの)郡二十座の中に大酒神社
(元名)大避(おおさけ)神社とあり、大酒神社ともいう。
「大避」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8(356)年皇帝14世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の純朴なる国風を尊信し始めて来朝しこの地に勧請す。
これが故に「災難除け」「悪霊退散」の信仰が生まれた。』
と書いてある。
小説『兜率天の巡礼』の中に非常に印象的なセリフがある。
大陸から一団を引き連れ兵庫県赤穂郡比奈の浦に上陸した普洞王が、大和の国に入る時
「風が絹のように柔らかい。光がたわむれるように肌にまつわる。此処には、人間の膚骨を刺戟する何ものもない。
このような国に住む者達は、一体、悪というものを知っているであろうか。悪を知らなければ、おそらく善をも知るまい。
善悪を知らずして生涯をすごせる天地こそ、天国と言うべきであろう。われわれの民族は、ようやく安住の地を得た。
東ローマから追放され膨大な時間と距離をかけてたどり着いた極東の地でのセリフはなんとも感慨深い。
更に大酒神社の由緒書を読んでみると
『后(のち)の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇14(372)年百済より127県(あがた)の民衆一万八千六百七十余人統率して帰化し、金銀玉はく等の宝物を献上す。
弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を卒て蚕(かいこ)を養い呉服漢織に依って絹綾錦の類をおびただしく織り出し朝廷に奉る。
絹布宮中に満積して山の如く丘の如し。天皇御悦の余り、理益(うずまさる)と言う意味で酒公に禹豆麻佐(うずまさ)の姓を賜う。
尚、603年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の6代目の孫。
と書いてある。
なるほど、「禹豆麻佐」から「太秦」に変わったのか!
平安京が794年だから・・・・
広隆寺建立は平安京遷都より191年前の話で、功満王の来朝が438年も前の話になる!!
余談ながら羽田孜元首相は、秦氏の子孫らしい・・・・と聞いた事がある。
らしい?
調べてみましたが、確証は得られませでした。
もし、秦氏が東ローマ帝国から極東の国に流れ着き、その子孫が千数百年をへて日本の政(まつりごと)を行うトップに立ったいうのが事実であれば歴史的なロマンを感じますね。
話を戻して。
大酒神社から東に行くと木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)がある。
木嶋坐天照御魂神社は、秦氏ゆかりの神社で「蚕の社」(かいこのやしろ)と呼ばれほうが多いです。
秦氏が、織物の技術に優れていた事から「蚕の社」と呼ばれるようになったそうです。
HPの「京の雑学」にも書いていますが、蚕の社には日本で唯一の三柱の鳥居があります。
由緒書には
『三柱鳥居
全国唯一の鳥居である。鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るように建立されている。
創立年月は不詳であるが現在の鳥居は亨保年間(約300年前)に修復されたものである。
今から約1300年前日本に伝わったキリスト教一派(ネストル教)の遺物ではないかと云われている。』
と書いてある。
『兜率天の巡礼』の中に三柱の鳥居の事を「ユダヤ人が好んで使うあの意味不明な三本足の紋章になんと酷似していることか。」と書いている部分がある。
ユダヤ教の中に「三本足の紋章」なるものがあるのか!?
三柱の鳥居へは近づく事が出来ないので解りづらいが、この鳥居は上から見ると二等辺三角形の形をしているらしい。
三柱の鳥居それぞれの面は、松尾・伏見・双ヶ丘(ならびがおか)に向いているらしい。松尾には松尾大社、伏見には伏見稲荷大社があり共に秦氏ゆかりの神社です。更に、双ヶ丘の一の丘には巨石の横穴式石室があり、秦氏の長の墓と考えらています。
更に秦氏ゆかりの場所へ・・・・
蚕の社から南へ行くと三菱自動車工場があり、そのすぐ北側に天塚古墳があります。
天塚古墳入り口↓
天塚古墳は、管理されている方がいて一声かけると中の石室を見せていただけます。
石室入り口は二箇所あり、どちらも古墳の中に潜り込むようにして石室の一部を見ます。
石室入り口↓
中はこのような感じです↓
巨石の組み合わせに圧倒される・・・
別の石室入り口↓
石室内↓
天塚古墳に書かれていた説明では(要約)
『史跡 天塚古墳
この古墳は、6世紀前半に作られたと推定される前方後円墳で、嵯峨野太秦古墳群の中でも、史跡蛇塚古墳に次ぐ全長70m余りの規模を持っている。
墳丘にはめずらしく後円部西側の無袖式、西側のくびれ部の片袖式と、2基の横穴式石室がある。
近辺の古墳分布や遺物などを考え合せると、この天塚は近くの蛇塚や甲塚と同じく、大陸から渡来してこの地域をひらいた秦氏一族の墓と推定され、往時の土木技術や一族の勢力圏を探る貴重な手がかりとなっている。
石室内には、現在伯清稲荷大神の祭壇がおかれ巨岩の組み合わせを見る事が出来る。』
と書いてある。
説明にも書かれていた蛇塚古墳へ・・・
蛇塚古墳は、広隆寺から南西方向にある松竹撮影所南側の住宅街の中にあります。
蛇塚古墳↓
まるで住宅街に突如出現したかのような異質な巨石群!
中は少し補強していました。
蛇塚古墳内↓
書いてある説明では(要約)
『史跡 蛇塚古墳
この巨石の石組は、古墳時代後期末の7世紀頃築造された京都府下最大の横穴式石室である。
早くから墳丘封土が失われ、後円部中央の石室だけが露出しているが、周囲の輪郭をたどると現在でも前方後円墳の形をとどめている。
この太秦を含む嵯峨野一帯は、渡来系の秦氏一族により開発されたものと考えられており、京都盆地でも有数の古墳分布地区である。
蛇塚古墳は、その規模や墳丘の形態などからみて首長クラスの墓と考えられる。
なお、蛇塚という名称は、石室内に蛇が棲息していたことから付けられた呼び名である。』
と書かれている。
天塚古墳・蛇塚古墳ともに秦氏一族の墓でる。
この巨石をみても秦氏の絶大な力と高度な土木技術がうかがえる。
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