五条大橋から北上し四条大橋そして三条大橋へ向かって歩いてみた。
五条大橋↓
五条大橋は、牛若丸が弁慶を打ち負かし生涯家来とした場所として有名です。五条大橋たもとの牛若ひろばには、牛若丸と弁慶像があります。
しかし、京の雑学にもありますが、この場所は本当の五条通ではなく、平安時代は六条坊門通だったそうです。
五条大橋から鴨川沿いに北へ歩いて行くと松原橋(平安時代この辺りに五条大橋が架かっていた)が見えてきます。ちなみに、橋の奥に見えているのが比叡山です。
鴨川↓
松原橋と奥に比叡山↓
松原橋からさらに歩いて行くと四条大橋が見えてきます。義経(牛若丸)・弁慶ゆかりの地(後編)でも書きましたが、松原橋から右(東)へ行くと八坂の塔⇒産寧坂⇒清水寺と行けます。
四条大橋↓
四条大橋から右(東)へ行くと八坂神社、左(西)へ行くと松尾大社へつきます。
四条大橋から見た鴨川↓
遠くに目指す三条大橋とその奥に北山連峰が見えます。
三条大橋とその奥に北山連峰↓
何とも京都らしい良い風景です。
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四条大橋のたもとに歌舞伎の祖出雲の阿国像が建っています。
出雲の阿国像↓
説明によると
出雲の阿国
1603年、出雲の阿国はこの四条河原で先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露、関が原の合戦後のすさんだ世に都人を驚かせ絶大な喝采を浴びました。
歌舞伎の元祖といわれる阿国の出生は不明ですが、出雲大社の巫女で一座を率いて勧進のため入洛、北野天満宮の定舞台で名声を得て各地を巡業しその人気が広まりました。
江戸時代に入り、風紀を乱すと女歌舞伎禁止令が出て、男が女形を演じるようになり今日の歌舞伎に発展しました。
阿国は晩年出雲に帰り、尼僧となって生涯終えたと伝えられ、その墓は島根県大社町と京都の大徳寺高桐院にも存在しますが、伝説の域を出ません
と書かれている。
出雲の阿国像のナナメ向かいには、歌舞伎や演劇が行われる南座があります。
南座↓
南座
江戸時代から続く歌舞伎の劇場で毎年11月末日より12月末まで行われる顔見世公演は京都の風物詩となっている。このときには役者の名前を勘亭流で書いた「まねき」と呼ばれる、白木の看板が劇場の入り口上にずらりと並べられることで有名。
四条大橋から川上に向かって歩いていくと三条大橋が見えてきます。
三条大橋↓
室町時代には、すでにこの場所に橋が架けられていたそうで、豊臣秀吉の命で本格的な橋になったそうです。東海道五十三次の起点で、橋の西側には東海道中膝栗毛でおなじみの弥次喜多像があります。
弥次喜多像↓
橋の東側には駅伝の碑と高山彦九朗像があります。
駅伝の碑↓
駅伝の歴史ここに始まる
わが国最初の駅伝は、遷都50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正6(1917)年4月27日、4月28日、4月29日の三日にわたり開催された。スタートは、ここ京都三条大橋、ゴールは東京不忍池の博覧会正面玄関であった。
と書かれている。
三条大橋から不忍池とは、なんて長大な駅伝だ!京都は、最初の駅伝スタート地点とあってか現在でもマラソンや駅伝がさかんに行われています。
高山彦九郎像↓
説明によると(一部要約)
高山彦九郎皇居望拝之像
高山彦九郎は、群馬県出身である。18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鏡と仰いだと言われる。
と書かれている。
さて、最後はスターバックス京都三条大橋店でコーヒーをいただいた。前回は、川床でいただけなかったが、今回は9月に入っていたので昼間でも川床が開かれていました。
川床からみた三条大橋↓
クーラーのきいてる店内より外は暑いけれど、鴨川から流れる自然の風が気持ちいい!京都の歴史を感じながらのんびりと贅沢気分です。
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