壬生寺から南西の方角直線距離約700mのところに、東鴻臚館(ひがしこうろかん)址の石碑があります。
東鴻臚館址↓
石碑によると
東鴻臚館址
平安時代、京の中央に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館にあたる。
当時この館を利用していたのは、唐ではなく渤海国(ぼっかいこく)の使者にかぎられていた。当時の政府は、渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽(りんゆうがく)を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20(920)年頃には廃せられた。
島原伝統保存会より
渤海国とは
渤海 (国)
渤海(ぼっかい、698年 – 926年)は、満州から朝鮮半島北部ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国。高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、中国からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
平安京の渤海国専用の迎賓館がここにあったのか・・・・。渤海国の消滅と共に無くなった感じですね。
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東鴻臚館址の近くに角屋があります。
京都市の立て札によると
角屋(すみや)
島原は、我国最初の花街で、当時は二条柳馬場に開かれ、その後六条三筋町に移転し、さらに寛永18(1641)年にこの地に移された。急な移転騒動が、当時の九州で起こった島原の乱に似ていたことから島原と呼ばれている。
島原には、揚屋と置屋があり、揚屋は太夫・芸妓など一切かかえず、置屋から太夫等をよんで宴会を催す場である。
(中略)
幕末には、西郷隆盛・久坂玄瑞などの勤王志士たちが、軍用金調達のため時の豪商を角屋へ招いて会談を行ったところであり、また彼等を探し求めた新撰組が乱舞した場所でもあった。
島原の乱からその名が付けられたのか・・・・。ちなみに、新撰組の芹沢鴨は島原からの帰り、近藤勇らによって暗殺されます。その様子は、壬生寺に書いています。
島原から更に歩いていくと、島原の入り口大門が見えてきます。
島原
島原は、江戸時代以来、公許のか花街として発展したきた。(中略)一般に島原と呼ばれてきたが、正式地名は西新屋敷(にししんやしき)という。
単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していた。
しかし、明治以降の島原は次第にさびれてゆき、現在では揚屋(今の料亭に当たる店)の「角屋」、置屋(太夫や芸妓を派遣する店)の「輪違屋」、そにに島原入口の「大門」、これら三箇所がわずかに往時の名残をとどめるものとなっている。
島原伝統保存会より
大門↓
この大門は、遊女の逃亡防止のためにあったそうです。そして、現在はありませんが、門の前に思案橋(入るか入らないか迷うという意味の)という橋がかけられていたそうです。
柳の下には桶が置かれています。
この桶は、島原の火災の際に大門が閉められていて多くの遊女が焼け死んだのを教訓に、防火用として置かれているそうです。
かつては、活気があったであろうこの場所も、今では静かな住宅街の中にひっそりと大門が建っています。
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