今から427年前の1582(天正10)年6月1日は、「本能寺の変」前日です。
明智光秀とはどのような人物だったのだろう?フロイスの見た戦国日本によると、宣教師フロイスは光秀について
『殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自分が受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目が無く、戦争においては謀略を得意とし、忍耐に富み、計略と策謀の達人であった。
また、築城のことに造詣が深く、すぐれた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
フロイスの見た戦国日本 (中公文庫)』
と書いている。
何ともひどい書かれようだが、途中で信長に仕え急激に出世している事を考えると、これくらいの悪どい人物でないと頭角は現せないかもしれません。
1582(天正10)年5月28日・29日、光秀は京都市内で最も高い山の一つ愛宕山にある愛宕神社へ向かいます。
愛宕神社↓
愛宕神社は、当時武士の間で勝軍地蔵信仰がはやっており戦勝祈願のため訪れたと考えられています。
光秀は、連歌の会を催し「時は今 天が下しる 五月哉」と句をよみます。時は土岐(光秀の家系)、天が下しるは天下を取るとも解釈されます。つまり、この時点で謀反の心は決まっていたのかもしれません。
6月1日夕刻、丹波亀山城を出発した明智光秀軍13000人は織田信長のいる本能寺を目指した。
京都市のとなり亀岡市、JR亀岡駅から少し歩いた所に亀山城址の石碑が建ています。
亀山城↓
また、亀山城から南西約5㎞の場所に光秀が本能寺へ向かうため引き返した明智戻り岩があります。
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説明によると(一部抜粋)
『明智戻り岩
1582(天正10)年6月1日、明智光秀が織田信長より豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられ丹波亀山を出発し、先鋒が屏風岩に達したところに急遽京都本能寺へその先鋒を変しとことから後世に「明智戻り岩」と呼ばれるようになった。』
と書かれている。
本当かな?ここは、京都からひとやま超えた遠く離れた場所です。わざわざ信長の目をごまかすため、一旦京都(本能寺)とは反対方向に向かったのか・・・・
写真を見てわかるように非常に狭い山道です。ここで大軍が引き返しの命令を受けたら大変です。にわかには信じられない伝説です。
6月2日未明、光秀は、桂川西岸にくると全軍に馬のくつを切り捨て、徒(かち)には新しい草鞋、火縄一尺五寸に切り火を渡した。戦闘準備である。
信長のいる本能寺と信忠(信長の嫡男)のいる妙覚寺へ兵を向けた。
信長は、弓と槍で応戦するが「是非に及ばず」と本能寺に火を放ち自害する。脱出は不可能と判断した信長は、早い段階で火をつけたのではないかと思う。なぜなら、妙覚寺の信忠に早く知らせて逃げるチャンスを作りたかったのではないだろうか。
しかし、妙覚寺から二条御所に移った信忠も光秀軍の囲いを解けず自害。
火の回りが早かった本能寺では、信長の死体は発見されなかった。
明智光秀(後編)に続く
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