嵯峨祭は、5月第3日曜日に神幸祭、翌週に還幸祭が行われます。神幸祭は、還幸祭のための準備が殆んどで、見物するには還幸祭がメインになります。
嵯峨祭について京都新聞にこの様な記事が載っていました。
京都新聞より抜粋
『嵯峨祭の起源は、平安時代に棲霞寺(せいかじ)(現清凉寺内)で行われていた「惣社(そうじゃ)の祭り」だと指摘。
室町時代初期に南朝とつながりの深い大覚寺が、幕府の支援を受けて勢力を伸ばす天龍寺をけん制するため、清凉寺や愛宕権現、野宮神社を巻き込む「非禅宗連合の象徴」として発展させたと分析した。』
か・・・・そういえば天竜寺について以前読んだ”街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻”の中の”夢窓と天竜寺”には
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻より一部抜粋
『果てもない乱のあげく、後醍醐天皇は吉野で崩じた。
夢窓国師は足利尊氏に、
「菩提のため巨刹を建ててはどうか」
と提案した。造寺そのものよりも、造寺をすることで双方(後醍醐天皇と足利尊氏)の妄執が昇華されることを望んだのにちがいない。
尊氏は、大いに賛同し、天竜寺が大いに興る事になる。天竜寺の成立は、世間の耳目にとって、まことに華やかなものだった。
(中略)
天竜寺船は、二艘だった。秋(1342年)に博多を出、翌年夏に返ってきて、約束どおり至本は5千貫文をおさめた。
航海はそれっきりだが、天竜寺船が歴史上で有名になったのは、元という異民族王朝と正規に貿易をした皮切りということであり、もう一つは、いわば国立といっていい巨大寺院を建てるのに、商業手段を用いたてんである。』
と書かれている。
大覚寺統の後醍醐天皇(南朝)と持明院統の足利尊氏(北朝)との確執から、大覚寺の天龍寺に対する対抗意識となり嵯峨祭が出来たのかもしれないです。
街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻 (朝日文庫)
司馬 遼太郎
\(゜_\)(/_゜)/ 前置きは置いといてと
神幸祭の日、御旅所へ行ってみると愛宕神社の火迺要慎の御札が売っていました。愛宕山まで登っていくことを思えば・・・・今買っておこう。
火迺要慎の御札↓
御旅所の人に嵯峨祭の予定コースなどを聞いてみたら、中へ入れてもらえました。部屋の中には、昔の嵯峨祭の様子を描いた嵯峨祭絵巻が飾られていました。写真を撮ってもいいとの事で少し撮らせていただきました。
嵯峨祭絵巻↓
絵を良く見てみると二基の御神輿(愛宕・野宮)と剣鉾は同じものの、現在では見られない走り馬・大名行列・風流作り物・母良武者行列・風流踊・風流汐汲み・花篭の作り物・高野聖の風流・大名の狩場行列・馬長行列などが描かれています。
当時は、非常に大きなお祭だったことがうかがえます。しかも、剣鉾には蓮・桜・橘と書かれている。現在の剣鉾(麒麟鉾・龍鉾・澤潟鉾・菊鉾・牡丹鉾)とは種類も本数も違うみたいです。
還幸祭へ・・・・
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剣鉾↓
出発まで時間があるので周辺をウロウロとしていると、有名なお豆腐屋さん森嘉の前に昔の剣鉾が飾られていました。
森嘉前の剣鉾↓
龍の飾りと消えかけた愛宕山の文字が見える。昔の剣鉾見たいです。
10時前、そろそろ出発かとおもい御旅所へ戻ると、獅子舞がやってきました。
獅子舞↓
頭が良くなりますようにと子供の頭をガブリッ!
10時すぎ、御旅所での祭典が終わり剣鉾から出発です。御旅所から清凉寺の門まで剣鉾差しが行われます。
剣鉾差し↓
甲高い鐘の音が鳴り響く。この辺りは電線が多くて難しそうです。
剣鉾に続き御神輿が出発です。御神輿は、愛宕・野宮の順に出ます。
愛宕御神輿↓
野宮御神輿↓
清凉寺の門を右に。
御神輿と嵯峨野ののどかな風景があっています。行列は大覚寺を目指す・・・・
嵯峨祭(後編)へ続く
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