2006-06-16 (金) 17:19 投稿
ペリーの黒船来航(1853年)から10年後の1863年、尊皇攘夷を掲げる長州藩は、孝明天皇の大和行幸を機に王政復古を目指していた。
これに対し薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と結託してクーデターをおこし、長州藩を政治的に京都から追放した。
このクーデターは、文久3年8月18日におこったことから”八月十八日の政変”と呼ばれている。
余談ながら、八月十八日の政変で京都から長州へ逃れた7人の公卿(七卿落ち)は、時代祭りの幕末志士列で見ることが出来ます。
\(゜_\)(/_゜)/ 話を戻して
八月十八日の政変の翌年(1864年)、長州藩は武力で京都での復権を目的に禁裏(御所/天皇)を目指します。
それを阻止しようとした幕軍(薩摩藩・会津藩を中心とした)と長州藩との武力衝突が、禁門の変(蛤御門の変)です。
新創社の京都時代MAP 幕末・維新編によると、長州藩は国司信濃隊(約800名)・福原越後隊(約700名)・真木和泉隊(約600名)が三箇所からそれぞれ禁裏を目指したと書いてある。
京都時代MAP 幕末・維新編
新創社
6月22日 福原越後隊大阪到着
6月23日 福原越後隊伏見へ向けて出発
6月24日 福原越後隊伏見長州藩邸に布陣
6月24日 真木和泉隊大山崎の宝積寺に布陣
6月28日 国司信濃隊天竜寺に布陣
7月18日 長州軍出発
7月19日 禁門の変
福原越後隊は、伏見街道を北上するが、彦根藩兵・大垣藩兵に阻まれ敗走。
真木和泉隊は、西国街道を北上し堺町御門近くの鷹司邸の裏門より入ったが、諸藩に囲まれ敗走。
堺町御門↓
禁門の変は、蛤御門を目指す国司信濃隊と幕軍との攻防が最も激しかった事から”蛤御門の変”とも呼ばれます。
国司信濃隊が布陣していた天竜寺の塔頭弘源寺には、長州藩兵の刀傷があります。
弘源寺↓
弘源寺は、春と秋に特別公開されます。
長州藩兵の刀傷↓
近くの張り紙には
『元治元年7月20日に京都御所蛤御門の変が起こりました時に長州の軍勢が約500人、天竜寺に陣を敷き、血気にはやる兵士が柱に試し切りした跡がこの傷です。』
と書いてある。
当時の長州藩兵のはやる気持ちをうかがい知る事が出来ます。
しかし、日付と兵士の人数が少し違う気がするが?
後に、天竜寺の大部分は薩摩藩兵に焼かれてしまいます。
\(゜_\)(/_゜)/ ”蛤御門の変”当日に話を戻して
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3隊に別れた理由は、おそらく道が狭かった為であろうと推察します。
中立売通から見た中立売御門↓
現在でも道幅は広くありません。
そして、烏丸通に出た国司信濃隊は、蛤御門を目指し三方から殺到します。
蛤御門には、会津藩兵を中心とした幕軍が守っていました。
その時、蛤御門が閉まっていたかどうかは手元の資料では解りません。
想像ですが、蛤御門は閉まっていて、その前に会津藩兵が待ち構えていたのではないかと思われます。
蛤御門↓
長州藩兵と幕軍との激戦を物語るかのように、今でも蛤御門には弾痕が残っています。
蛤御門の弾痕↓
長州藩兵の猛攻はすさまじく、蛤御門を破り京都御苑内(京都御苑の中に京都御所がある)に進入します。
またまた想像ですが・・・・
三方から囲むように幕軍を攻め立てた長州藩兵は、京都御苑内に入ると逆に幕軍に囲まれる形になったのではないでしょうか?
蛤御門から十数mほど行くと、”清水谷家の椋”と呼ばれる大きな椋の木がある。
清水谷家の椋↓
清水谷家の椋の奥に見えるのが京都御所の築地塀です。
近くの立て札には
『清水谷家の椋
この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷があったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹齢は約300年くらいで苑内でも数少ない椋の大木です。
1864年の蛤御門の変時、長州藩士、来島又兵衛がこの木の付近で討ち死にしたとも伝えられています。』
と書いてある。
来島又兵衛は、京都御所の築地塀を見ながら「もう少しで禁裏なのに・・・」と無念に思ったのではないでしょうか。
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