京都五山第三位の建仁寺は、日本最古の禅寺です。
寺域は約2万2千坪と広大。
境内は、南から北へ勅使門・三門・法堂・方丈と建物が一直線に立ち並んでいます。
勅使門↓
平重盛六波羅邸の門または、平教盛館の門を移築したものと言われている。
勅使門は、矢の跡がある事から別名「矢立門」とも呼ばれています。
三門↓
御所を望む楼門から望闕楼(ぼうけつろう)とも呼ばれる。
闕(けつ)って難しい漢字ですね (^_^;
辞書で調べてみると、「闕とは、中国の宮門両側に建てた台で物見として使われた」と書いてある。
三門をよく見てみると確かに「望闕楼」の大きな額が掲げられている。
法堂↓
法堂の天井には、巨大な二匹の龍「双龍図」が描かれている。
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方丈は、安国寺恵瓊が安国寺から移築したもの。
方丈の南側には方丈庭園がある。
方丈庭園↓
方丈庭園を別角度から↓
中央の奥に見える建物は法堂。
方丈の北側には、茶室「東陽坊」があります。
東陽坊↓
東陽坊は、豊臣秀吉の北野大茶会で建てられた副席と言われています。
東陽坊の近くには安国寺恵瓊の首塚↓
立て札には(要約)
『安国寺恵瓊首塚
安国寺恵瓊は、天文7(1538)年安芸国守護武田氏の一族として生まれた。
天文10(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時4歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることとなる。
恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住職となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍を始める。
羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた祭には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。
やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。
また恵瓊は、建仁寺の方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し、多くの功績を残している。
その後恵瓊は慶長2(1600)年関ヶ原の合戦において主家毛利氏を石田光成らの西軍に味方させ、自身は西軍の最高首脳として暗躍するも、小早川秀秋が東軍に内応した事もあって、西軍は敗退。
恵瓊は、京都六条河原にて斬首され、六十三歳の波乱の生涯を閉じる。』
と書いてある。
安国寺恵瓊の名前は、歴史小説を読んでほんの少し知っている程度でした。
このような人生だったとは φ(.. ) メモメモ
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