洛北エリアの源光庵をリニューアル、紅葉マップに源光庵を追加しました。
修復工事が終わった源光庵に行って来ました。
源光庵入り口↓
少し歩いて行くと山門(?)が見えてきます↓
他では見られないユニークな形をしています。
庭園の紅葉が良い感じに色づいていました。
源光庵庭園↓
本堂の室内からは、悟りの窓と迷いの窓が見られます。
悟りの窓(左)と迷いの窓(右)↓
これが見たかった!
パンフレットの説明によると(一部抜粋)
『本堂には、悟りの窓と名付けられた丸窓と迷いの窓という角窓がある。
悟りの窓は、円型に「禅の円通」の心を表し、円は大宇宙を表現する。
迷いの窓は、角窓に「人間の生涯」を象徴し、生老病死の四苦八苦を表している。』
と書いてある。
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本堂廊下には”伏見桃山城遺構血天井”の札が下がっている。
上を見上げると血天井。
血天井↓
よーく見てみると足跡が見えます↓
掲げられていた説明によると(要約)
『伏見桃山城遺構血天井
慶長4年3月13日家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会津若松にあって百五十万石を受けていた五大老の一人上杉景勝が叛すとの情報が入り注進を受けた家康は、慶長5年(1600年)6月16日伏見城を出て会津に向った。
家康が江戸に入ったのを見届けると石田光成は、罪状十三ヶ条を並べ諸方に奮起をうながしていた。
集ます兵力九万三千七百余、家康を迎え撃つ拠点として血祭りに伏見城開城を迫ったのである。
鳥居元忠は「主君家康公は会津へ出発の折、固く城を守るべしと言残しておかれた。どうして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に討ち死にする以外ない」と拒絶した。
これを聞くや翌19日夕刻、光成に加担する兵四万がひしひしと伏見城を包囲した。城兵わずか千八百人を数えるのみであった。
伏見城攻略は十日余り続いた。7月末の夜ついに忍びの甲賀者、内通し松の丸に火を放った。
鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息をつぐところへ雑賀孫市が死体を踏み越え肉薄。
これを見た元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ」と叫び自ら腹をかき切った。ときに元忠六十二才、ともに討ち死にした部下三百八十人と云われる。
現在血の染み付いた天井は討ち死にした兵士の残せるもので床板を天井としたものである。
当時は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提をともらっており、現在文化財として維持している。』
と書かれている。
ちなみに、血天井はこちらの源光庵だけでなく、身代不動尊大祭でも書いた養源院、大原の宝泉院、西賀茂の正伝寺、宇治市の興聖寺にもあります。
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