京都観光研究所ブログ![お祭・グルメ情報や桜・紅葉の名所を綴る京都日記]
平安神宮の節分祭
- りょうたろう
- 2010-02-04 (木)
- 京都の歳時記(冬)
平安神宮へ節分祭を見に行ってきました。正午から14時まで額殿で狂言が奉納されました。演目は沢山あり、席も用意されています。席の数は少ないので座って見たい方は早めに行くことをオススメします。
狂言↓

上の写真は、水掛聟(みずかけむこ)という演目です。内容は、日照りで水の無い自分の田んぼに、義理の父の田んぼから水を引き入れた事から始まります。義理の父も負けじと水を取り返す。そのうち、娘婿と義理の父が水の掛け合い、泥の掛け合い、最後は取っ組み合いのケンカへとエスカレートします。そこに、嫁(写真左手前)が駆けつけ、言われるがままに父親の足を引っ張ったり、夫の足を引っ張ったり。最後は、夫の味方をし、父が負け取り残され「祭りには呼んでやらないからな!」と負け惜しみを叫びます。なかなか、動きもコミカルで面白かったです。
壬生寺・節分会(2010年)
- りょうたろう
- 2010-02-02 (火)
- 京都の歳時記(冬)
池田屋事件
- りょうたろう
- 2010-01-27 (水)
- 歴史
池田屋事件(騒動)とは、元治元年6月5日新撰組が池田屋に集結していた尊皇攘夷派の志士を襲撃した事件です。
事件の発端は、6月5日早朝古高俊太郎(枡屋喜右衛門)を新撰組が捕らえ壬生の屯所の連れて行き、拷問の後「6月20日前後の風の強い日、御所に火を放ち、その混乱に乗じて会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というクーデター情報を聞き出したことに始まる。

この地は、古高俊太郎が枡屋という道具屋をかまえながら、ひそかに勤王志士とまじわり、武器を集め倒幕の拠点としていた場所です。
坂本龍馬ゆかりの地(後編)
- りょうたろう
- 2010-01-18 (月)
- 歴史
坂本龍馬ゆかりの地(前編)からつづき
おりょう独身時代寓居跡から北へ歩く。三条通から一筋南の通り(通称龍馬通り)に龍馬がかくまわれていた酢屋があります。
酢屋↓

酢屋は、288年続く材木商で、当時主人が近くの土佐藩邸に出入りしている縁で龍馬をかくまうことになったそうです。現在の建物は、改装されていますが当時のおもむきを残しています。上の写真、左に見える格子の部屋に龍馬はいたそうで、海援隊本部としも使われていたそうです。ちなみに、二階の部屋から龍馬がピストルを撃ったという逸話も残されています。(むちゃするな・・・・ ^^;)
龍馬は、この部屋で姉あてに最後の手紙を書いたそうです。手紙の移しは酢屋の二階「ギャラリー龍馬」(入場料500円)で見ることが出来ます。
酢屋の前には坂本龍馬寓居跡↓

酢屋から西へ歩き、河原町通りを南に歩いて行くと坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑があります。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地碑(近江屋跡)↓

酢屋にいては危ないという事で土佐藩御用達の醤油商・近江屋に移ります。しかし、1867(慶応3)年11月15日夜坂本龍馬と中岡慎太郎は何者かに襲われてしまいます。
新創社の京都時代MAP 幕末・維新編にある坂本龍馬暗殺によると。
坂本龍馬暗殺(一部省略)
その夜、近江屋で何が起こったか
数名の武士が十津川郷士と名乗って龍馬に会いに来た。二階の奥の部屋には手前に中岡、行灯と火鉢を挟んで龍馬が向かい合っていた。受け取った名刺を見ていると、藤吉について上がってきた武士が突然「コナクソ」といって中岡を斬り付けた。
龍馬は床の刀を取り、鞘を付けたまま受け止めるが、力に押されて背中を肩から脇へ斜めに斬られ、乱闘のうちに額を斬られてしまった。
龍馬と中岡が動かなくなったのを見て武士の一人が「もうようい、もうようい」と言うと全員が立ち去った。
暗殺者たちが出て行くと、龍馬は行灯をもって階段の側まで行ったが「石川(中岡の変名)刀はないか」と何度か叫んでそのまま力尽きてしまった。
と書かれている。
暗殺者が誰なのか今でも謎のままです。ちなみに、この時まきぞいになった藤吉のお墓は京都霊山護国神社の坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓の隣にあります。

京都時代MAP 幕末・維新編
新創社
ここから、少し離れますが三条通りにある東山ユースホテルの前に坂本龍馬・おりょう結婚式場跡があります。
坂本龍馬ゆかりの地(前編)
- りょうたろう
- 2010-01-16 (土)
- 歴史
京都には、坂本龍馬ゆかりの地がたくさんあります。特に、木屋町通りぞいに集中して点在しています。河原町木屋町から北へ順に見ていきます。まず最初に見えてくるのが土佐藩邸址です。
土佐藩邸跡↓

橋を渡り少し西へ歩くと土佐稲荷岬神社があります。
















