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織田信長
船岡大祭
- 2009-10-24 (土)
- 京都の歳時記(秋)













船岡大祭は、織田信長の命日に行われる神事で信長にちなみ火縄銃の実射が行われます。
様々なタイプの火縄銃が披露されます。

その中でも特に異彩を放っていたのが下の写真にある大型の火縄銃?です。

大型の銃というより小型の大砲(火縄砲?)と言った方がいいのでしょうか・・・
大きいだけに発射された時の迫力も凄いです!
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明智光秀(後編)
- 2009-06-02 (火)
- 歴史













明智光秀(前編)からの続き
1582(天正10)年6月2日朝、本能寺の変で信長を殺した明智光秀は、その日のうちに信長の居城安土城を目指す。
ここからは学研の激震織田信長を参考に、本能寺の変以降の光秀の軌跡を追ってみます。

激震織田信長―破壊と創造の戦国覇王 (歴史群像シリーズ戦国セレクション)
学研
6月2日(晴)
光秀は、未刻(午後二時)、急遽兵を率いて大津通(東海道)を下り、近江に向かった。
6月3日(雨)
毛利軍と対峙していた秀吉が本能寺の変を知る。
6月4日(晴)
秀吉は毛利軍と和議をし、京へ向かう準備をする。(中国大返し)
一方、光秀は安土城到着。
6月5日(雨)
安土城に入城し金銀財宝を部下や京都五山などに分け与える。
6月6日(雨)
秀吉姫路に進軍。
6月7日(晴)
朝廷が光秀の覇権を認知。
6月8日(晴・夜大雨)
光秀摂津へ進軍。
6月9日(晴)
細川親子、光秀の誘いを拒否。
細川藤孝は、いわば光秀の盟友、しかも藤孝の子忠興には光秀の娘(細川ガラシャ)を嫁がせている。まさかの拒否に光秀は焦る。
6月10日(晴)
秀吉軍、近日出現のうわさ。光秀は、秀吉軍は毛利軍と膠着状態で動けないと考えていた。
6月11日(雨)
光秀、山崎に進軍。
6月12日(晴)
秀吉、摂津に到着。秀吉明智両軍、円明寺川を挟んで対峙。
6月13日(雨)
山崎の戦い(天王山の戦い)。光秀は惨敗し勝竜寺城に退却。その夜、居城の坂本城を目指したが、途中農民の襲撃にあい討たれてしまう。
勝竜寺城↓

勝竜寺城は、現在公園として使われています。
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明智光秀(前編)
- 2009-06-01 (月)
- 歴史













今から427年前の1582(天正10)年6月1日は、「本能寺の変」前日です。
明智光秀とはどのような人物だったのだろう?フロイスの見た戦国日本によると、宣教師フロイスは光秀について
『殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自分が受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目が無く、戦争においては謀略を得意とし、忍耐に富み、計略と策謀の達人であった。
また、築城のことに造詣が深く、すぐれた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
フロイスの見た戦国日本 (中公文庫)』
と書いている。

フロイスの見た戦国日本 (中公文庫)
川崎 桃太
何ともひどい書かれようだが、途中で信長に仕え急激に出世している事を考えると、これくらいの悪どい人物でないと頭角は現せないかもしれません。
1582(天正10)年5月28日・29日、光秀は京都市内で最も高い山の一つ愛宕山にある愛宕神社へ向かいます。
愛宕神社↓

愛宕神社は、当時武士の間で勝軍地蔵信仰がはやっており戦勝祈願のため訪れたと考えられています。
光秀は、連歌の会を催し「時は今 天が下しる 五月哉」と句をよみます。時は土岐(光秀の家系)、天が下しるは天下を取るとも解釈されます。つまり、この時点で謀反の心は決まっていたのかもしれません。
6月1日夕刻、丹波亀山城を出発した明智光秀軍13000人は織田信長のいる本能寺を目指した。
京都市のとなり亀岡市、JR亀岡駅から少し歩いた所に亀山城址の石碑が建ています。
亀山城↓

また、亀山城から南西約5㎞の場所に光秀が本能寺へ向かうため引き返した明智戻り岩があります。
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大徳寺・総見院
- 2007-09-01 (土)
- 京都探索記(洛北)













大徳寺塔頭の一つ総見院は、織田信長の菩提寺です。1583(天正11)年豊臣秀吉が本能寺の変で亡くなった信長を追善供養するために創建されました。
総見院本堂↓
総見院は、通常拝観は出来ませんが、春と秋に特別拝観という形で公開されます。
本堂に入るとお茶と茶菓子が出て、総見院について説明がされます。中では、高さ115cmの信長公木像が見れます。
信長の遺骸が無かった為、代わりに信長公木像を2体造り、1体を追善供養の時に火葬したそうです。
本堂を出て奥の茶室へ・・・・・
上の写真ではわかりにくいのですが・・・・廊下途中の天井には、輿が備え付けられています。
茶室は三席あり、どこも綺麗でした。説明によると秀吉が催した”大徳寺大茶会”では総見院方丈が使われたそうです。
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大雲院と石川五右衛門
- 2007-08-08 (水)
- 京都探索記(洛東)













円山公園の南に大雲院があります。大雲院は、通常拝観は出来ませんが、時々特別拝観という形で公開されます。
大雲院特別公開
期間:平成19年7月14日?9月30日※法要等拝観できない場合あり
時間:10時?16時(受付終了)
拝観料:600円
大雲院は、本能寺の変で倒れた織田信長と嫡男信忠の菩提を弔うために建立されたのが始まりで、貞安上人を開山とし、信忠の法名大雲院殿三品羽林仙厳大居士からその名が付けられた。
受付をすませ進んでいくと鐘楼が見えてきます。
鐘楼(右)↓
こちらの鐘楼は、豊臣秀頼が北野神社に寄進し後にコチラに移されたものです。
更に進むと本堂で大雲院の説明をされていました。
それによると、大雲院は元々烏丸二条に建立され、その後豊臣秀吉の命により寺町四条に移された。
昭和に入り寺町四条が繁華街となった為、昭和48年高島屋の所有地であった現在の地と寺町四条の地を交換する形で移転してきたそうです。
大雲院のシンボルとも言えるのが祇園閣です。
祇園閣↓
祇園閣は、大雲院が移転する以前に大倉財閥の大倉喜八朗が当初金閣寺の金閣・銀閣寺の銀閣につづく銅閣を造ろうとしたそうです。しかし、結局は祇園祭の鉾をかたちどった建物が造られる事になった。
銅閣という発想がすごい!(((((( ;゚Д゚)))))独創的だ・・・・
見上げると・・・・
屋根には鶴↓
大倉喜八朗は、鶴が好きだったらしく鳳凰ではなく鶴になったそうです。
入り口にはライオンの狛犬↓
ライオンの狛犬?表現が何だか変だ・・・・ (; ̄ー ̄A
しかし、ちゃんと阿吽になっています。
阿↓
吽↓
(((((( ;゚Д゚)))))独創的だ・・・・
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