京都観光研究所ブログ![お祭・グルメ情報や桜・紅葉の名所を綴る京都日記]
祇園祭・くじ改め
- りょうたろう
- 2009-07-17 (金)
- 京都の歳時記(夏)
昔々、山鉾巡行の先陣争いが絶えなかった事から、室町時代以降クジによって順番が決められたそうで、現在では毎年7月2日京都市役所で巡行順を決めるくじ取り式が行われます。7月17日、山鉾巡行では四条堺町に関所をもうけ、奉行(京都市長)がクジを読み上げ順番に間違いが無いか確認をするくじ改めが行われます。
くじ改め↓
フタを開けクジを差出し・・・・
流れ橋
- りょうたろう
- 2009-07-12 (日)
- 京都探索記(洛南)
流れ橋は、木津川にかけられている日本最長級(全長356・5m、幅3・3m)の木造橋で、正式名称は上津屋(こうづや)橋という。昔は、この場所に上津屋という渡し船があり、昭和26年(もしくは28年?)に橋がかけられた。
橋げたは、橋脚に載せてるだけで大雨など増水した時には、浮いて流れる構造になっていることから流れ橋と呼ばれています。下から見てみると・・・
島原
- りょうたろう
- 2009-07-05 (日)
- 京都探索記(洛中)
壬生寺から南西の方角直線距離約700mのところに、東鴻臚館(ひがしこうろかん)址の石碑があります。
東鴻臚館址↓
石碑によると
東鴻臚館址
平安時代、京の中央に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館にあたる。
当時この館を利用していたのは、唐ではなく渤海国(ぼっかいこく)の使者にかぎられていた。当時の政府は、渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽(りんゆうがく)を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20(920)年頃には廃せられた。
島原伝統保存会より
渤海国とは
渤海 (国)
渤海(ぼっかい、698年 – 926年)は、満州から朝鮮半島北部ロシアの沿海地方にかけて、かつて存在した国。高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、中国からは「海東の盛国」(『新唐書』)と呼ばれたが、最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
平安京の渤海国専用の迎賓館がここにあったのか・・・・。渤海国の消滅と共に無くなった感じですね。
嵯峨豆腐 森嘉
- りょうたろう
- 2009-07-02 (木)
- グルメ
清涼寺から歩いてすぐのところに有名な豆腐専門店森嘉があります。
森嘉↓

司馬遼太郎著『街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻』によると
嵯峨の清涼寺のそばの豆腐も、有名である。いまでは、「嵯峨豆腐」と通称されて、同業者が数件できている。人の話では、阪神間のさる金持ちの家の人が、キャデラックでここまで豆腐を買いに来るということだった。
(中略)
森嘉は、百年以上経った店で、代は4代(当時)つづいている。三代目がうまい豆腐を作ることに熱心だったが、その志を四代目がつぎ、いよいよ品質をみがいた。街道をゆく〈26〉嵯峨散歩、仙台・石巻より一部抜粋
司馬 遼太郎
明智光秀(後編)
- りょうたろう
- 2009-06-02 (火)
- 歴史
明智光秀(前編)からの続き
1582(天正10)年6月2日朝、本能寺の変で信長を殺した明智光秀は、その日のうちに信長の居城安土城を目指す。
ここからは学研の激震織田信長を参考に、本能寺の変以降の光秀の軌跡を追ってみます。

激震織田信長―破壊と創造の戦国覇王 (歴史群像シリーズ戦国セレクション)
学研
6月2日(晴)
光秀は、未刻(午後二時)、急遽兵を率いて大津通(東海道)を下り、近江に向かった。
6月3日(雨)
毛利軍と対峙していた秀吉が本能寺の変を知る。
6月4日(晴)
秀吉は毛利軍と和議をし、京へ向かう準備をする。(中国大返し)
一方、光秀は安土城到着。
6月5日(雨)
安土城に入城し金銀財宝を部下や京都五山などに分け与える。
6月6日(雨)
秀吉姫路に進軍。
6月7日(晴)
朝廷が光秀の覇権を認知。
6月8日(晴・夜大雨)
光秀摂津へ進軍。
6月9日(晴)
細川親子、光秀の誘いを拒否。
細川藤孝は、いわば光秀の盟友、しかも藤孝の子忠興には光秀の娘(細川ガラシャ)を嫁がせている。まさかの拒否に光秀は焦る。
6月10日(晴)
秀吉軍、近日出現のうわさ。光秀は、秀吉軍は毛利軍と膠着状態で動けないと考えていた。
6月11日(雨)
光秀、山崎に進軍。
6月12日(晴)
秀吉、摂津に到着。秀吉明智両軍、円明寺川を挟んで対峙。
6月13日(雨)
山崎の戦い(天王山の戦い)。光秀は惨敗し勝竜寺城に退却。その夜、居城の坂本城を目指したが、途中農民の襲撃にあい討たれてしまう。
勝竜寺城↓

勝竜寺城は、現在公園として使われています。
















