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京都探索記(洛東) Archive
六道珍皇寺と幽霊飴
- りょうたろう
- 2007-08-12 (日)
- 京都探索記(洛東)













六道珍皇寺の始まりは、鳥部氏の氏寺説や、空海の師慶俊僧都が創建した説などがありはっきりとはしていません。
現在は、臨済宗建仁寺派に属し”六道さん”の名称で親しまれています。
境内には、鐘楼や閻魔・篁堂があります。
鐘楼↓
鐘楼の中には、一打で十万億土に響き渡ると言われている”迎え鐘”があります。お盆の六道まいりでは、精霊を迎える為に多くの人が”迎え鐘”を撞きに来ます。
閻魔・篁堂↓
普段は上の写真の様に閉められていますが、六道まいりの時には大きく開かれ、中の閻魔大王座像・小野篁像が見れます。
閻魔大王座像・小野篁卿立像↓
閻魔大王座像↓
小野篁卿立像↓
小野篁(おののたかむら)は、嵯峨天皇に仕えた平安時代の政治家で、昼は朝廷に仕え、夜は閻魔大王に仕えた伝説を持っています。
境内には、小野篁が閻魔大王に仕える為、あの世とこの世の往来に使ったとされる井戸があります。
篁冥土通いの井戸↓
掲げられた説明によると
『篁冥土通いの井戸
当寺の本堂裏庭の北東角にある井戸は、平安時代の昔に篁が冥府の閻魔庁の役人として現世と冥府の間を行き来するのに使ったところといわれている。
言い伝えによれば、篁は亡き母御の霊に会うために、この鳥辺野にある当寺を訪れ、冥土に通じるといわれるこの井戸を使ったのが最初と言われている。
(中略)
その帰路の出口として使いこの世に戻ったところが、嵯峨の大覚寺南付近の六道町の一郭に明治の初め頃まであったとされる福生寺の井戸であるとする説もある。
しかし、残念ながら今はその遺址もなく、井戸の伝承はかつての福生寺の本尊として伝わる地蔵菩薩とともに清涼寺西隣の薬師寺に引き継がれている。
これは、平安の昔には珍皇寺あたりの洛東の鳥辺野とともに嵯峨の奥、化野(あだしの)もまた当時の墓所であったことより、ここにもやはり六道の辻は存在していたとすれば、閻魔王宮に出仕していた篁が、冥府よりの帰路に出口としていた説もうなずけるところである。』
と書かれている。
確かに、大覚寺門前には六道町という地名が今でもあります。
洛東の六道珍皇寺の井戸があの世(冥府)の入り口で洛西の福生寺(現在は薬師寺)の井戸が出口だった!(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
ちなみに、今は六道珍皇寺の井戸の中は見れません・・・・・と言うより決して見てはいけないと言われています。
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大雲院と石川五右衛門
- りょうたろう
- 2007-08-08 (水)
- 京都探索記(洛東)













円山公園の南に大雲院があります。大雲院は、通常拝観は出来ませんが、時々特別拝観という形で公開されます。
大雲院特別公開
期間:平成19年7月14日?9月30日※法要等拝観できない場合あり
時間:10時?16時(受付終了)
拝観料:600円
大雲院は、本能寺の変で倒れた織田信長と嫡男信忠の菩提を弔うために建立されたのが始まりで、貞安上人を開山とし、信忠の法名大雲院殿三品羽林仙厳大居士からその名が付けられた。
受付をすませ進んでいくと鐘楼が見えてきます。
鐘楼(右)↓
こちらの鐘楼は、豊臣秀頼が北野神社に寄進し後にコチラに移されたものです。
更に進むと本堂で大雲院の説明をされていました。
それによると、大雲院は元々烏丸二条に建立され、その後豊臣秀吉の命により寺町四条に移された。
昭和に入り寺町四条が繁華街となった為、昭和48年高島屋の所有地であった現在の地と寺町四条の地を交換する形で移転してきたそうです。
大雲院のシンボルとも言えるのが祇園閣です。
祇園閣↓
祇園閣は、大雲院が移転する以前に大倉財閥の大倉喜八朗が当初金閣寺の金閣・銀閣寺の銀閣につづく銅閣を造ろうとしたそうです。しかし、結局は祇園祭の鉾をかたちどった建物が造られる事になった。
銅閣という発想がすごい!(((((( ;゚Д゚)))))独創的だ・・・・
見上げると・・・・
屋根には鶴↓
大倉喜八朗は、鶴が好きだったらしく鳳凰ではなく鶴になったそうです。
入り口にはライオンの狛犬↓
ライオンの狛犬?表現が何だか変だ・・・・ (; ̄ー ̄A
しかし、ちゃんと阿吽になっています。
阿↓
吽↓
(((((( ;゚Д゚)))))独創的だ・・・・
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吉田神社
- りょうたろう
- 2006-10-05 (木)
- 京都探索記(洛東)













洛東のページに吉田神社、オススメコースに平安神宮?吉田神社コースを追加しました。
日本には、多くの神々という意味の”八百万の神”という言葉があります。
神々(八百万の神)を拝みに、日本列島北から南まで全ての神社に参拝したらどれくらいの時間がかかるだろう?
京都の吉田神社末社に、日本中の神々が祀られている大元宮があります。
真如堂から7、8分歩いて行くと吉田神社の大元宮が見えてきます。
大元宮↓
つまり、大元宮に参拝すれば日本中全ての神社に参拝したのと同じと事になる!
叶えられない願いは無いって事ですか!!
写真では解りにくいが、大元宮は上から見ると八角の形をしていて、神社としては珍しい形をしています。
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真如堂
- りょうたろう
- 2006-09-28 (木)
- 京都探索記(洛東)













金戒光明寺の境内を北に抜け、少し歩いた所に真如堂があります。
真如堂山門↓
山門をくぐり真っ直ぐに進んでいくと本堂が見えてくる。
真如堂本堂↓
本堂へ入ると、親切にお寺の方に色々と説明していただきました。
ご本尊である阿弥陀如来像について、お話によると
『「比叡山の修行者のご本尊になっていただきたい」
と言うと三度首を振られて断られた。
そこで
「京の都で女性の方を救っていただきたい」
と言うと三度うなずかれた。
なので、真如堂のご本尊阿弥陀如来像は女性の方に特にご利益がある。』
との事でした。
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金戒光明寺
- りょうたろう
- 2006-09-26 (火)
- 京都探索記(洛東)













徳川幕府は、成立した当初から京都に正式なお城二条城を作り、万が一の時に兵を入れる擬似城として知恩院と金戒光明寺に力を入れたそうです。
そして、徳川幕府が恐れていた万が一が幕末に起こった。
幕府は、ただちに会津藩主松平容保に対し京都守護職を命じ京都の治安をまかせた。
1862(文久2)年12月、会津藩は藩兵1,000人を率いて金戒光明寺を本陣とした。
平安神宮から北に歩いて行くと浄土宗大本山の一つ金戒光明寺がある。
石段を上ると大きな山門が見えてくる。
山門↓
立て札には
『この山門は江戸幕府の命により文政11年(1828)再建にとりかかり萬延元年(1860)12月に落慶されたものである。』
と書いてある。
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