池田屋事件
- りょうたろう
- 2010-01-27 (水) 23:14
- 歴史
池田屋事件(騒動)とは、元治元年6月5日新撰組が池田屋に集結していた尊皇攘夷派の志士を襲撃した事件です。
事件の発端は、6月5日早朝古高俊太郎(枡屋喜右衛門)を新撰組が捕らえ壬生の屯所の連れて行き、拷問の後「6月20日前後の風の強い日、御所に火を放ち、その混乱に乗じて会津の松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」というクーデター情報を聞き出したことに始まる。

この地は、古高俊太郎が枡屋という道具屋をかまえながら、ひそかに勤王志士とまじわり、武器を集め倒幕の拠点としていた場所です。
古高俊太郎が捕まった事を知った勤王志士は、その日の内に池田屋に集まり、古高奪還とクーデター決行の是非を相談をしていた。一方、新撰組は近藤勇組と土方組に別れしらみつぶしに犯行グループを探しに出た。
6月5日23時ごろ、ついに近藤勇組が池田屋を突き止め踏み込む。壮絶な戦闘の末、志士側は即死7名・生け捕り23名にのぼり後に傷が元で落命した者もでた。本当は、桂小五郎も池田屋にいる予定だったが、所用があり新撰組が来る前に去り命拾いしています。

新撰組をあつかった名作「燃えよ剣」によると池田屋事件について
池田屋の変によって新撰組は雷鳴をあげたが、歴史に重大な影響をもたらした。
普通、この変で当時の実力派の志士の多数が斬殺、捕殺されたために、明治維新が少なくとも一年遅れたといわれるが、おそれく逆であろう。
この変によってむしろ明治維新が早く来たと見るほうが正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかもしれない。
革命には、革命派の凶暴な軍事行動が必要だが、当時の親京都派諸藩のいずれも、それへ飛躍する可能性も気分も無かった。どの雄藩の首脳も、幕府に盾をつくなど考えもしていなかった。ひとり、三十六万石の長州藩という火薬庫が爆発したのである。
と書かれている。
また、新撰組については
幕府は、新撰組を警察とみた。近藤にすれば、片腹いたかったろう。
近藤は、卑職の与力上席をことわり、依然として官設の浪人隊長の自由な身分に甘んじた。幕閣、守護職御用所では、みな近藤の無欲さに感動した。
しかし、近藤は無欲ではない。
池田屋の変ののち、白馬を購入し、これに華麗な鞍を置き、市中見回りにはこれを用い、槍を持った隊列を従え、威風、大名のような印象を士庶にあたえた。
と書かれている。
池田屋事件は、反幕府・新撰組どちらにも大きな影響を与えた歴史のターニングポイントと言えるのではないでしょうか。
ちなみに、池田屋事件で亡くなった志士のお墓は、龍馬のお墓のナナメ後ろにあります。

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